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俳句教養の森[01] |
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俳句教養の森[01] |
2018-03-03～・・・日経より引用 ●俳句、言葉の宇宙探法訪 編集委員 中沢義則氏 1 ◆松尾芭蕉㊤ 2つの生家 農業体験が感性の原点に 幼名 : 松尾金作 俳号は 宗房・・・・・桃青・・・・・芭蕉 松尾芭蕉のことになると、三重の人たちは熱くなるらしい。三重県雇用経済部観光局次長の安保雅司さんは芭蕉の生地・伊賀市から少し離れた津の人だが、芭蕉を敬愛する点では伊賀人に劣らない。愛車でゆかりの場所を案内してくれた。私が伊賀を訪ねたのは1月中旬。のんびりと旅をする陽気ではなく、底冷えがした。角川俳句質を受けた伊賀市の俳人で安保さんの俳句の師、宮田正和さんの句に「雪よりも 風の百日 伊賀盆地」がある。伊賀市に雪はなく、風があって、よけいに寒さを感じた。安保さんは昨年3月まで2年間、東京に勤務して、県が日本橋につくった特産品や観光のPR拠点「三重テラス」の責任者を務めた。 日本橋の文化の奥行編集委員 中沢義則きに触発されて文化活動にも取り組んだ。そのひとつが蕉郷句会だ。日本橋の企業の人や俳人などの協力で2015年12月につくって三重テラスで定期的に催してきた。芭蕉の郷里、三重県ゆかりの場所で開くから蕉郷句会と名付けた。芭蕉は江戸に出てから日本橋にも住んでいた縁もある。蕉郷句会には毎回、20〜25人参加する。私も取材を兼ねてお邪魔したことがある。ベテランが多い中、俳句をかじって4年余りの私は隅っこで小さくなっていた。あらかじめ題（兼題）が出されていて、ひとりが8旬投句する。 さすがにいい句が多かった。選句の末、かろうじて1点獲得した私の句は兼題・夕立を詠んだ「夕立に 姉のシミーズ 取り込めり」。洒脱な作風で知られる故小沢昭一さんに似た句があったような気もしたが、調べる時間がない。「えい」と出してしまった。知人の大先輩が選んでくれたのは、きっとお情けだろう。伊賀紀行を続けよう。公益財団法人芭蕉翁顕彰会が運営する芭蕉翁記念館を訪ね、学芸員の馬岡裕子さんに話を聞いた。 とても面白かった。「芭蕉さんは後年、俳譜の宗匠たちに俳聖とされて、偉人として祭り上げられたのでしょう」と話す。「もちろん傑出した俳人ですが、人闇・芭蕉さんは勉強家で努力家。門弟思いで人間愛にあふれた人だったと思います」若いころの農業の体験が芭蕉の俳人としての感性の原点と馬岡さんは指摘する。たとえば「春雨や 二葉に萌ゆる 茄子種」。柔らかく暖かい春の雨に畑の茄子種が健やかに育ち、かわいい二葉を伸ばし始めている。芭蕉が手植えした種だろう。土や農作物と向き合った人ならではの細やかな観察力が息づき、作物への愛情が伝わってくる。 芭蕉は苦労人だ。江戸に出たのは29歳ごろ。模索の末に才能を開花させて誹諧の宗匠として江戸屈指の存在になるのだが、門弟をとても大事にして卓抜とした指導力を発揮した。大名や豪商の連句にも呼ばれて指導したが、媚びたり諮ったりすることはなかった。そのことは席を同じくした人たちが記録に残している。「異説も多いので詳しく書かない方がいいと思います」と言う人もいるが、芭蕉の生家には2説あって、旧伊賀町柘植と旧上野市赤坂町の両方に生家の跡が残っている。別に双方が言い争っているわけではないけれど、両論がある。松尾家の本家は長く柘植にあったが、父の代に分家して上野に移っている。 その転居が芭蕉が生まれる前なのか後なのか判然としない。ところが2004年11月に上野市と伊賀町などが合併して伊賀市が誕生、両方とも伊賀市になった。探訪に戻ろう。旧伊賀町の生家跡に建物はない。民家と畑の問を歩くと碑がたっている。何の飾り気もないが、すがすがしい。後ろの民家の土壁に情緒がある。旧上野市の芭蕉翁生家は兄の家で江戸末期に建て替えた古い木造家屋だ。間口は狭いが奥行きがあり、粗末な生活用異が置いてある。 若き芭蕉の質素な喜らしがしのばれる。旧上野市の建物は伊賀街道と大和街道が交差する要所の近くにある。この辺りは今は住宅が多いが、昔は農村地帯に隣接していた。街道を往来する老若男女、さまざまな職業の人たちを幼い芭蕉は眺めていたのだろう。簡素な木造の平屋で紙の障子の家。行き交う人々の会話も耳に入ったに違いない。広い世間を垣間見て感受性と好奇心を磨いたのだろう。 俳人・芭蕉の成り立ちにも影響を与えたのは間違いない。私は半分は酒をのむのが楽しみのような句会に出ている。ちっとも上達しないけれど、とても面白い。私の俳句は「発想が横に飛んでいく」らしい。つまり変挺なのだ。「芭蕉の俳語を味わえばいい」といろいろな人に言われる。だから連載は芭蕉で始めた。次回も芭蕉を続ける。有名、異端、郷土の俳人群像を俳句の素人が追いかける。
2 ◆松尾芭蕉㊥ 主従で腕磨く青年期 専業の俳譜師目指し江戸へ 松尾芭蕉が生まれたのは1644年（正保元年）、没年は1694年（元禄7年）。50年の生涯だった。その経歴には実に異説が多い。研究者の多くが推奨する今架蔵の「芭蕉年譜大成」 （角川書店）では「出生月日不詳」としてある。前回、2説を紹介した生誕地は「伊賀上野赤坂町」と明記している。父の与左衛門は豪族の末裔とされ、武士に準じる待遇の農民。だから松尾の姓がある。父は青年のころ、父祖の地、伊賀の柘植を離れて伊賀上野に移る。芭蕉誕生のころは普通の農民だった。 母の名は不明。伊賀国を治めることになる藤堂高虎の移封に従って伊予国（愛媛県）から伊賀の名張に移り住んだ人の娘という。芭蕉は次男坊。兄の半左衛門のほか、姉がひとり、妹が3人いる。本名は松尾忠石衛門宗房で幼名は金作。最初の俳号は宗房、後に桃青などと号して芭蕉となる。伊賀上野は藤堂藩の支城がある城下町だ。芭蕉が13歳のときに父が逝く。そして藤堂家の伊賀付き士大将の藤堂新七郎家に住み込みで仕えたとされる。奉公の時期にも諸説があるが、芭蕉19歳のころとするのが妥当のようだ。 役職は料理番とも厨房役ともいわれる。主人は当主の息子、主計良忠。芭蕉より2つ年長で俳譜に通じ、蝉吟の号を持っていた。同世代のふたりは主従ながら気が合って誹諧仲間になる。蝉吟が催す座に連なったりして、ともに腕を磨いた。一緒に京都の高名な宗匠、北村季吟に師事した。私の伊賀紀行は続いた。松尾家一族の墓がある万寿寺、弟子の服部土芳の住まいで芭蕉もしばしば訪ねた蓑虫庵、壮麗な石垣が残る上野城壁…：。 案内してくれた三重県庁観光局次長の安保雅司さんは「青年芭蕉の最も幸福な時代だったかもしれませんね」と話した。幸福は長く続かない。芭蕉が奉公に上がっておよそ4年、芭蕉23歳のときに良忠が没する。その後の芭蕉の足取りには不明な点もあるが、結局、兄の家の離れに戻る。伊賀市の芭蕉翁生家の庭にある離れの跡には碑だけが建っている。きっと粗末な小屋だったろう。母屋の風呂場には湯舟がなかった。夏は行水、冬はかけ湯。そんな暮らしの中で、芭蕉の誹諧への情熱は燃え盛り、猛烈に勉強して俳譜の修練に明け喜れた。 その地位は伊賀上野の俳壇で次第に高まっていく。そして寛文12年（1672年）正月、地元の中堅、若手の俳人36人から発句を集めて自らが選者になって30旬の発句を左石に分かれて競わせる「貝おほひ」をつくり上野の神社に奉納。郷土の俳壇に名を記すと、この年の春、専業の誹諧師を目指して江戸に出る。29歳ごろのことだ。江戸での督闘、努力、模索の日々が始まった。俳語の座に積極的に参加して江戸の著名な誹諧師たちと交流。台頭してきた「当世風」と呼ぶ新風に傾倒していく。誹諧の点料（指導料）だけでは食えず、神田上水の工事現場の差配役になる。 35歳ごろで宗匠になり、37歳で深川の隅田川の河畔に草庵を結び、やがてこの庵が芭蕉庵と呼ばれる。だが庵は貰い火で焼け落ちる。その後、芭蕉庵は再建されるが、芭蕉は1684年（貞享元年）8月、41歳で弟子の千里を伴って伊勢神宮に詣で、伊賀上野で前年亡くなった母の墓参をすませ、大和、吉野、美濃を巡り、翌年4月に江戸に戻る。その紀行文が「野ざらし紀行」である。芭蕉の旅の時代が始まった。 俳句振興を目的とするNPO法人、双牛舎（東京都千代田区二番町）代表理事の今泉悔之介さんは芭蕉について「連句の発句（第1句）の価値を高め、連句から俳句へと至る道筋を定めた」と語る。今泉さんが芭蕉を論じる際のキーワードは「旅」。近著「俳句史の真実」 （双牛舎）の中で芭蕉の三大大紀行文「野ざらし紀行」「笈(おい)の小文」（「更科紀行」を含む） 「奥の細道」に占める「名句」の多さに注目した。何をもって名句とするのか。今泉さんは「名句辞典」から選んだ。基にした「名歌名句辞典」 （三省堂）と「日本名旬集成」 （学燈社）が梅載する芭蕉の句は前者が270句、後者は289句で、両方に載っているのは196句。 両書は著名な俳人や研究者の編集によるもの。万人の認める芭蕉の名句は約200句とみてよさそうだ、と今泉さんは考えた。研究者がおそらく思い付かない妙手だ。紀行文に名句はどう分散しているのだろうか。「野ざらし紀行」に32旬、「笈の小文」に31句、そして「奥の細道」には41句の合計104句だった。4つの行脚に費やした日数はおよそ1年8カ月。俳人芭蕉の本格的な活動期間は22年間だから、このわずかな間に名句の半数余りを紡(つむ)ぎ出したことになる。実に手間のかかる実証的な論考である。
3 ◆松尾芭蕉㊦ 大俳人の神髄、紀行文 老境の行脚、気塊伝わる 松尾芭蕉はどうして旅であまたの名句を詠めたのか。NPO法人双牛舎の今泉悔之介さんは「座を組み、式目と呼ぶ約束事の中で句をつないでいく連句の制約を離れ、心の赴くまま自由に詠む喜びがあったのではないか」とみる。平安時代以前からある連歌の流れを汲む連句は最初の五七五の発句に続けて座の人々が七七、五七五と次々に詠む。「付けていく」のだ。前の句の感興を敷衍(ふえん)したり、イメージを飛躍させたりしながら、まるで壁画のような句の連なりをつくり出す。江戸中期ごろから流行して、武士や商人から庶民まで興じた。 誹諧といえば連句のこと。芭蕉とその一門が発句を、明治時代に俳句と呼ばれることになる新たな文芸ジャンルとして独立させる道を拓くのに大きな役割を果たした。劇的な変化だった。芭蕉の旅は連句の座に出て宗匠を務める「仕事の旅」でもあった。「奥の細道」のころは江戸で指折りの宗匠だったから、旅に出ても各地の座に招かれる。もちろん芭蕉は連句を愛していた。この紀行文には連句の座の記述はほとんどない。当たり前のことだから省いたのだろう。 「奥の細道」は1689年（元禄2年）の旧暦3月未、今の暦では5月半ばに弟子の河合曽良とともに江戸を出て東北、北陸を行脚(あんぎゃく)して今の岐阜県大垣で終わる紀行文だ。実際にはその後、伊勢まで旅を続けている。浪人中、古文の受験勉強で読んで以来、四十数年ぶりに「奥の細道」を通読した。案外短い。短文で名所や旧跡の情景や湧き起こる感慨をリズミカルに記していて心地よい。私が思ったのは芭蕉にとっての「旅の重さ」。老境を迎えての厳しい行脚だ。尊敬する漂泊の歌人、西行法師の旅の跡を訪ねる旅でもあった。 僧形で歩いた。気脱が伝わってくる。「夏草や兵どもが夢の跡」 「閑さや若にしみ入蝉の声」 「荒海や佐渡によこたふ天河」 「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」……。「奥の細道」は名句のオンパレ－ドだが、フィクションもあるとされる。季節が少しずれていたり、歩いていない場所を詠んだ句もあるらしい。だが、それは読み手を喜ばせる優れた技巧だ。袖ふれ合った人たちとの簡潔な物語にも情感が寵(こも)っている。江戸時代にそんな言葉はないけれど、文学性は見事としか言いようがない。 「五月雨をあつめて早し最上川」。山形の大石田から酒田へ小舟で最上川を下るときの臨場感あふれる一句だ。大石田の連句の座の発句で芭蕉は「五月雨をあつめて涼し最上川」と詠んでいる。夏である。この地は涼しいところですね、という挨拶旬で、座に連なった大石田の人たちはきっと喜んだことだろう。平明、爽快で次の人が句を付けやすい。大石田を発ち、難所が多い最上川を下りながら、3文字を変えただけで写実の句に仕立て直した。芭蕉の句の解釈や蘊蓄(うんちく)を多くの人に聞き、本を読んで、その奥行きに圧倒された。 でも印象に残ったのは市井の芭蕉ファンの話だ。東京・荻窪の出版社、日本地域社会研究所で落合英秋社長を取材中、たまたま芭蕉が話題になった。すると落合さんが「菊田さん、ちょっと」と来社中の男性に声をかけた。中野区に住む菊田守さんだった。83歳。同社から出す著書の最終チェックに来ていた。「日本人の心の自然発見山川草木鳥獣虫魚の世界に遊ぶ」と題する本だ（4月に刊行予定）。芭蕉の自然観や老いと旅などをテーマにしている。菊田さんは大学で日本文学を学び、詩にのめり込む。 59歳まで信用金庫に勤めながら詩を書き、多くの詩人たちに薫陶を受けた。日本現代詩人会会員で長年の創作活動が評価されて「先達詩人」に選ばれている。「芭蕉句集」はいつも座右にある。「最近は芭蕉と一緒に生きています」と話す。芭蕉は人生を厳しくとらえた人という。「此の秋は何で年寄る雲に鳥」が一番好きな句。なぜ、この秋はこんなに老いを感じるのか。空に烏が飛び雲が流れゆく。私の人生も行方定めぬ漂泊の旅であった。 芭蕉最晩年の作。ずっと芭蕉の句と向き合ってきた菊田さんはこのごろ「『軽み』や『おかしみ』に惹かれる」という。しみじみとした芭蕉諭だ。伊賀市の話で芭蕉を終えたい。芭蕉翁顕彰会の人で蓑虫庵の案内役、村井博子さんは芭蕉が好んだ庵のことを親切、丁寧に教えてくれて、郷土の俳聖芭蕉への敬意が伝わってきた。俳句をたしなむ村井さんに近作を聞いた。「おちばふむ音もなく行くベビー靴」。やっと教えてくれたのは、よちよち歩きの子どもの姿が目に浮かんでくる、素直でかわいらしい句だった。芭蕉のふるさとには俳句が似合う。
4 ◆宝井其角(きかく) 早熟の天才 芭蕉の「誹諧革命」を推進 松尾芭蕉は1694年（元禄7年）に旅先の大坂・難波で逝った。亡骸(なきがら)は滋賀県の木曽義仲が眠る義仲寺(ぎちゅうじ)に葬られた。芭蕉は義仲を敬愛していたそうだ。葬儀の段取りを取り仕切ったのが宝井其角（1661〜1707年）。たまたま江戸から上方に来ていた。行動的で才気煥発(かんぱつ)だった。服部嵐雪、杉山杉風、向井去来ら年長の高弟たちを差し置いて芭蕉門下の一番弟子だ。入門したのが15歳だ。父、東順は近江（滋賀県）の人で蘭学を修めた医者だ。 江戸に下り、其角が生まれたころは日本橋堀江附にいた。英才教育で14歳で医者の名を持った。まるで中学生棋士、藤井聡太六段のような早熟の天才だった。だが藤井六段と違って生活は奔放で遊興三昧。本人も「十五から酒のみ出でて」と書いている。俳語に通じていた父は息子の行く末を案じ、芭蕉のもとに送り込んだ。連句の才能もずば抜けていた。「夢と成し骸骨踊る荻(おぎ)の声」。18歳の発句だが、シュールで不思議な魅力がある。 連句の諧謔(かいぎゃく)や遊び心を尊びながら侘び、寂び、幽玄、風流を根底にした文学性を注ぎ込み、発句を独立させて新たな文芸ジャンルとして確立するーー。天才・其角が他の高弟たちとともに芭蕉の「俳話革命」の推進役になる。其角座十四世の伊藤（号は江窓）哲子さんに会った。其角の名を冠した座があるのを知ったのは、NPO法人双牛舎の今泉悔之介さんの著書「俳句史の真実」によってだ。ルーツは江戸座。 其角の酒脱で都会的俳語に心酔する俳人たちがつくった。其角座はそれを受け継いで寛政時代（1700年代末）に誕生。活動は休止を挟んで連綿と続いてきた。「其角は博覧強記で自由奔放。連句や俳句は斬新で魅力的。芭蕉もその新しさを認めていました」と哲子さん。85歳。2016年9月に催した「十四世襲号正式俳詰興行」で巻いた36句の連句（歌仙）で宗匠の哲子さんは発句で「志高きに登る心かな」と就任の心意気をうたい上げた。 「あれっ、季語がない」と思ったのは私の勉強不足で「高さに登る」が秋の季語。脇と呼ぶ第2句は「眼下に広く豊穣(ほうじょう)の秋」（十三世藍窓燈）と発句を壮大に受けた。3旬日が「サキソフォン澄みゆく月を追いかけて」 （儒渕雀羅）。爽やかに転調した。こういう調子で36旬を詠み継ぐ。哲子さんは「連句の約束事は宗匠が教えてくれるし、添削もします」と話す。哲子さんの父、河野（旧姓大塚）貞三郎さんは大杉栄が自伝に「一番若い弟子」と書いた無政府主義に共感する青年で出版社、自由書房を設立、長谷川如是閑や荒畑寒村らの本を出した。 社名を変えて出版や古書の販売を続け、印刷業も興した。ハイカラで文化的な家庭だった。哲子さんは幼いころから絵を描き、俳句に親しんだ。そして早稲田の文学部のロシア文学科に進む。同じクラスに五木寛之がいた。結婚してから江東区大島の自宅で「消費生活を考える会」をつくり、国際婦人年の翌年、76年に東京代表としてスイス、スウェーデンに派遣された。タウン誌「下町タイムス」で取材に駆け回り、俳句も現代俳人として評価される。30年ほど前に連句と出合い、楽しさに魅せられた。 今回、周囲に「あなたこそ適任」と推されて十四世に就いた。其角ゆかりの連句の座、命日の墓参のほか、東京をはじめ全国の連句の催しに参加する。すごいパワーだ。其角もパワフルだった。「貴賤(きせん)を問わず人と仲良くなり、敵を作らなかった」と哲子さん。人脈が広く、庶民の人気は絶大だった。面白い逸話も多い。元禄6年（1693年）は干ばつで秋の実りを心配した農民たちが向島の三園神社に集まって雨乞いをしていた。通りかかった其角は一句つくった。「遊ふたち（夕立）や田を見めぐりの神なれば」。 本当に降ったらしい。自適句集「五元集」に「うたへば翌日雨障る」と書いている。歌舞伎や講談の題材になった逸話もある。作り話がほとんどだが、人気の証明だろう。「鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春」 「夕すずみよくぞ男に生れけり」 「身にからむ単羽織もうき世哉」。モダンで新しさを感じる句だ。だが芭蕉の没後は放蕩(ほうとう)に拍車がかかり、師の教えを忘れたかのように難解な句が増え、去来など高弟たちに「蕉門に非ず」と批判された。 芭蕉亡き後、江戸の俳壇は動乱期に入り、レベルも下がるのだが、其角の人気は圧倒的だった。47年の生涯は短すぎた。芭蕉のように俳聖と呼ばれず、記念館も顕彰会も〝庵〞の跡もない。だが其角の名を冠した座の後継者がいて、連句を楽しむ人たちがいる。其角、もって瞑(めい)すべし。
5 ◆斎藤俳小星(しょうせ) 虚子が認めた農俳人 ハンセン病患者に40年指導 斎藤俳小屋は1883年（明治15年）に埼玉県所沢の農家に生まれた。全国に知られる俳人ではないが、私は俳小星の句が好きだ。俳聖・芭蕉、天才・其角と続いて、今回は郷土の俳人、俳小星を書く。なぜ郷土の俳人なのか。私は所沢市の隣町、東京の東村山市に10歳から住んでいて、半世紀を超えた。俳小星は東村山の国立ハンセン病療養所、全生(ぜんしょう)園で1964年に亡くなるまで約40年間、入所者に俳句の指導を続けた。 中学の野球部で私たちはよく全生園のグラウンドで練習や試合をした。患者さんがたくさん見ていた。俳号は中国や江戸の戯作者が「お妾さん」を「小星」と呼んだことにちなんでいる。俳句の正妻ではなく一歩下がって小星としたところに人柄がにじむ。次男坊で医者志望だったというが、結局、農家を継ぐ。祖父や姉が俳句を好み、幼いころから句作をした。10代で地元の俳人に入門。俳誌に投稿、何度も入選した。 明治末に高浜虚子が主宰する「ホトトギス」の同人に。虚子は農俳人として買っていた。俳小屋が推されて初代会長になった所沢市俳句連盟の会長を経て今は顧問の鈴木すぐるさんは81歳。20歳で俳句を始めた。奥さんの征子さんと俳誌「雨蛙」を主宰する。「俳句好きの退職者や女性たちを中心に、のんびり俳句を楽しんでいます」と鈴木さん。会員は約100人。「雨蛙」を季刊で出しているからすごい。この俳句の大先輩に俳小星の旬の魅力を聞いた。「写生を基本にしていて、句は目に見えるように鮮明で誰にも分かりやすい。 半分以上が農業の句で土や作物と向き合ってきた体験を詠んでいるので親しみやすい」と解説してくれた。「話すうち一枚出来ぬ俵編み」「苗床に梯子(はしご)渡して間引きけり」。ユーモラスな人だったのだろう。「麦踏(むぎふみ)のこち見て畝をふみはずし」 「畳より針おどり出る蝿叩(はえたたき)」武蔵野の風光を詠んだ句がいい。「郭公や狭山ケ丘も深からず」 「入間野や相似て円き雪の山」。俳小屋には2男5女があるが、太平洋戦争で長男を失った。 「汝がために作りし瓜も甲斐なしや」。 痛恨・哀悼(あいとう)の句だ。ベッドタウンとして高層マンションが立ち並ぶ所沢。かつては江戸に近く、川越、飯能、八王子につながる交通の至便(しべん)な所。文芸が盛んで天明年間（1781〜89年）に江戸の俳語師との交流が始まって多くの俳人が生まれた。中でも1753年（宝暦3年）生まれの女流俳人、野遊亭理恵女（三上理恵）が知られている。所沢有数の商家に嫁いだが、天の句だ。ベッドタウンとして高層マンションが立ち並ぶ所沢。かつては江戸に近く、川越、飯能、八王子につながる交通の至便な所。文芸が盛んで天明年間（1781〜89年）に江戸の俳語師との交流が始まって多くの俳人が生まれた。 中でも1753年（宝暦3年）生まれの女流俳人、野遊亭理恵女（三上理恵）が知られている。所沢有数の商家に嫁いだが、夫の三上半次郎は野遊亭一巣(いっそう)の号を持つ俳人。芭蕉の高弟、服部嵐雪の弟子に師事し夫婦で句をつくった。俳小屋は理恵女を尊敬していた。征子さんは「理恵女がいて俳小屋さんがいて、俳句を愛好する私たちにつながっている。先人を敬って顕彰(けんしょう)しなければ」と考えて俳小星のことを熱心に調べている。「雨蛙」に征子さんが書いた「俳小星と全生園」は、そんな熱意が伝わる文章だ。 俳小屋の四女、よしゑさんと墾息になり、この俳人の素顔を聞いて誠実に伝えている。俳画も容もうまく、各地に俳句の指導に出かけたという。俳小星の葬儀の日の話が印象的だ。当時は全生園の入所者たちは自由な外出が許されず、事務の人が弔辞を代読した。無念が切々と綴(つづ)られていて、入所者に慕われていた温かい人柄が分かる逸話だ。全生園について書いた俳小星の文章も引用している。 「患者たちは写生を主とし、花鳥諷詠(ふうえい)に志し、誤らず惑わず日新（原文のママ）月歩今日に及んで居る」と書き、彼らの旬を紹介している。「ふるさとへ心の墓参念珠練る」（梯梧）、「病める眼に名月割れてまとまらず」 （暁雨）俳小屋のことを教えてくれたのは東京・神田神保町の出版社、肥星社の藤巻修一さん。「ハンセン病文学全集」 （全10巻）を刊行した人だ。2002年に第1巻を出して10年がかりで完成。編集委員には加賀乙彦、鶴見俊輔、大岡信らが加わっている。ハンセン病療養所では文芸活動が盛んで水準も商いが、世に出ることは少なかった。 鹿児島県鹿屋の療養所にいた作家の故・島比呂志が「私たちの全集がほしい」と書いているのを読んで「よし、つくろう」と決意したという。同僚の能登恵美子さんが献身的に全国13の療養所の文芸誌や俳誌などから作品を集めた。まだハンセン病の資料館もなく、労力と根気が要った。第9巻が俳句と短歌で全生園の人たちの作品も収めていて心に響く。「偏見の強かった戦前から亡くなるまで熱心に指導を続け、園内の句会には仲間を伴って啓発にも努めた」と藤巻さんは俳小屋を讃(たた)えている。
6 ◆井上井月(せいげつ)㊤ 伊那谷の漂泊俳人 言祝ぐ句、芥川龍之介も驚嘆 東京・東中野のミニシアター「ポレポレ東中野」で映画「ほかいびと 伊那の井月」を見た。江戸末期から明治中期に生きた放浪の俳人、井上井月がぶらりとやって来た南信州の伊那谷で暮らした、およそ30年間を描いている。いい映画だった。監督はドキュメンタリー映像作家の北村皆雄さん、75歳。東京・新宿で映像コンテンツ制作会社を主宰しており、日本映像民俗学の会代表だ。伊那市美篶(みすず)出身の北村さんのもうひとつの肩書が井上井月顕彰会の2代目会長。 井月を愛する伊那市の人たちが集まって発足。多彩な活動で近年の井月人気を盛り上げている。完成までに4年を費やした「ほかいびと」も顕彰会を中心に制作、2011年に伊那市を皮切りに上映を始め、全国を巡回してフランス、ドイツ、中国でも上映した。伊那谷の美しい四季を背景に幕末、維新の風俗や行事、祭りなどを織り交ぜながら放浪を続ける俳人の姿をさまざまな資料に基づいて丁寧に描いた。井月を演じた舞踊家の田中混、ナレーションの樹木希林がいい。 下伊那のゆかりの場所を巡ってロケをした。顕彰会の人たちのほか、地元の住民たちも出演している。井月は1858年（安政5年）ごろ、飄然(ひょうぜん)と伊那谷に姿を現す。37歳ごろにやってきて65歳ぐらいで伊那谷で死んだ。越後・長岡藩の下級武士で藩校で学び、江戸でも学問を修めたようだ。脱藩して漂泊の人になった後も俳語の修練を積んだ。書の達人で俳語に通じる教養人として、伊那谷の好学の士や趣味人に歓迎された。きっと魅力的な人だったのだろう。 物欲や金銭欲はなく、住まいを持たなかった。主に今の伊那市や駒ヶ根市など上伊那の家々や寺を回り、書を揮竃(きごう)し、俳譜の添削をし、連句の座を持って酒食のもてなしを受け、泊めてもらう。酒好きで呑むと「千両、千両」と言って喜んだ。しばしば野宿もした。「ほかいびと」は大和言葉で言祝ぐ人のこと。出産や婚礼、家の棟上げや長寿を祝う旬をつくる。悼む句も詠んだ。北村さんが育った美篶(みすず)は井月終焉の地。「俳人井月 幕末維新 風狂に死す」 （岩波書店）の著書もある北村さんは「井月さんと伊那谷の人たちとの交流に心惹かれる。 優しい、お接待精神が井月さんを支えた。伊那谷の人間として誇らしく思う」と話す。こうした伊那谷の人たちの調査研究や井月の故郷、長岡の郷土史家らの研究で謎に包まれていた井月の前半生もすこしずつわかってきている。たとえば脱藩の理由。長岡藩は戊辰戦争で幕府側に付いたが、井月には勤王の志があったのだろう。藩の姿勢と相いれなかったようだ。井月の発句がいい。「花に客しらで碁をうつ一間かな」。これは春の句。「ほととぎす旅なれ衣ぬぐ日かな」は夏。秋の旬は「新米や塩打って焼く魚の昧」。 そして冬（新年）。「目出度さも人任せなり旅の春」。「どうだ、上手いだろ」という気負いを感じない。即席で詠じることも多いから月並み句もあるけれど、どの句も俳味があって、しみじみとした味わいがある。伊那を訪ねた。東京・新宿から伊那バスターミナルまで高速バスで約3時間半。南アルプスと中央アルプスの山々に囲まれた広々とした盆地で、すがすがしくて気分がいい。バスターミナル近くの市立創造館2階の井月展示室がよかった。16年の顕彰会の呼びかけに市が応えてできた。散在していた井月の資料を集めた。 こぢんまりした部屋に句を記した短冊や書や屏風などが並ぶ。井月が世話になった家々から見つかったものがほとんど。驚いたのが書の筆跡の美しさだ。端麗で品格があるのが素人目にも分かる。明治維新後、世の中も人々も変わったが、井月は伊那谷を漂い続けた。芭蕉に心酔して、風狂を好んだ。竹の杖を持ち、粗衣は垢じみて風がたかっている。女性や子供たちに「乞食井月」 「鼠井月」と疎まれて、悪ガキに石を投げられた。その悪ガキのひとり、下島勲が東京に出て医師になり、無名だった井月を世に出すきっかけをつくる。 下島は芥川龍之介の主治医を務め、空谷(こうこく)の号を持つ俳人でもあった。下島が芥川に井月の書と旬を見せたところ、芥川はまず書を見て「神業というべきもの」と驚嘆して、句集の出版を勧めた。それが1921年（大正10年）に出た「井月の句集」だ。芥川は人脈を生かして高浜虚子らからも句を得て、「あとがき」も書いている。伊那市に着いたのが3月9日。翌10日は井月が亡くなった井月忌で、顕彰会の人たちと墓参りをした。顕彰会理事で広報担当の矢島信之さんが墓参に連れて行ってくれた。矢島さんも「井月愛」が強い、とても親切な人だ。事前に貴重な資料をたくさんいただいた。矢島さんの案内で井月ゆかりの場所を巡った話は次回に続く。
7 ◆井上井月㊦ 伊那の人々に愛され 生活支えた家々、句の発見続く 井月忌の3月10日、伊那谷には朝早く雪が降った。井上井月顕彰会広報担当理事の矢島信之さんに伊那市芙篤末広の墓に案内してもらった。墓参は朝8時から。5cmほど積もっていた。とても寒い。顕彰会の理事4人が顔をそろえていた。矢島さんは気配りの人で墓地の入り口から井月の墓まで雪かきをしてくれていた。この俳人が好きだった清酒も供えてあった。とても小さくて清々しい。「降るとまで人には見せて花曇り」の旬が刻まれている。 正式な井月忌の集いは3月4日に東京・四谷の主婦会館で開いた。恒例の俳句大会も催し、最近の井月人気もあって盛況だった。理事4人は「井月愛」が強い人ばかり。この俳人についての蘊蓄(うんちく)をうかがった。井月の墓の向かいに立つ大きな墓は塩原家の墓だ。実篤の農家で、井月はその分家の人々に面倒を見てもらった。行き倒れて担ぎ込まれたのが塩原の分家で、庭にある小屋で息を引き取っている。1887年（明治20年）3月10日のことだ。 理事のひとり、下島大輔さんの駒ヶ根市中沢の住まいは下島勲の生家で親戚にあたる。勲は芥川龍之介に井月の旬と書を紹介、それがきっかけで出版された「井月の句集」で名が次第に世の中に知られるようになる。句集の初版本を手にして、下島さんは「龍之介をはじめ著名な作家や画家などが関わった実にぜいたくな本です」と解説してくれた。「顕彰会の活動は軌道に乗ってきましたが、子供や若者にもっと井月さんの魅力を伝えたい」と話す。矢島さんが車で井月ゆかりの場所を巡ってくれた。伊那市には井月の碑が約70ある。 一番見たかったのが放浪の自由律俳人、種田山頭火の碑だ。井月の碑と並んで実篤笠原に立っている。踵鉄(さてつ)を重ねて家を捨て、死と向き合って世捨て人のように放浪しながら句作を続けた。井月はあこがれだった。彼が井月の句集に初めて出合ったのは1932年（昭和7年）8月。30年に出た井月全集を手にして、日記に「今までに読んでゐなければならない本だった」と記した。後に「私は芭蕉や一茶のことはあまり考へない、路通や井月のことばかり考へている、彼等の酒好や最後のことである」と書いている。 八十村路通は放浪の俳人で、生まれは美濃、京都、近江など諸説がある。山頭火は39年5月には伊那の女学校の教師で俳人の前田若水の案内で墓参している。ふたりの碑は畑の中の疎水の脇に建っている。雪曇りで周りの景色はよく見えないが、晴れれば山々の絶景が見渡せるはずだ。矢島さんの運転でいくつかの峠を越え、いろいろな集落を回った。井月はよく歩いたなあ、と思った。家々に残る井月物語を矢島さんに聞いた。最も新しい句碑は昨年5月、伊那市の高鳥谷(たかずや)にある。住民ら639人が資金を出し合ったという。 「大勢の人たちが井月さんのために力を合わせた。協力してくれたのがうれしい」と矢島さんは話す。昼食は駒ヶ根の食堂「水車」で井月井を食べた。イノシシの肉にゴボウを合わせて甘辛く煮てご飯に乗せてある。「井月さんに獣の肉を食べる『共食い』の句があるのでつくってみました」と社長の宮沢宏治さん。店には小さな井月コーナーもあって、宮沢さんも、この俳人に入れ込んでいる。相可空から陽が差し、だんだん晴れてきた。山々がくっきり見え、天竜川とその支流の風景も美しい。「伊那、とりわけ上伊那は広いんです。 信州の中では暖かい方で、人間がおおらかです」と矢島さんは話す。流れてきた井月を手厚くもてなしたのも、そのおおらかさ故だろう。伊那の人たちの「井月愛」を語るとき、欠かせない存在が竹入弘元さんだ。86歳。今も続く井月の旬の鑑定を中心的に関わっている。伊那北高校の国語教師だった。映画「ほかいびと」を監督した北村皆雄さんも矢島さんも教え子だ。何しろ井月が泊めてもらった家はおよそ100軒、食事をした家は約200軒。新たな句の発見は続き、今では1800前後に増えている。 竹入さんは長年、句の吟味や解釈、全集を監修してきた。今年8月には5度目の改訂版「新編井月全集」を出す予定で、厳選した1747句を収録する。井月の旬や文章以外の解説や資料などを現代かな遣いにして読みやすくする。この目の墓参にも列席の予定だったが、寒さのため、大事をとって欠席だった。主に伊那の人々の尽力で井月の評価は高まっている。おかげで井月は小林一茶から正岡子規までの幕末・維新を挟んだ「俳句空白の100年」を埋める俳人のひとりと評価されるようになった。
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